数々のピンチを知略で切り抜けた
戦国一の野心家

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伊達政宗(1567〜1636年)
出羽国(山形県・秋田県)と陸奥国(福島県・宮城県・岩手県・青森県)の大名。仙台藩の初代藩主。幼少時に患った疱瘡
(天然痘)により右目を失明し、「独眼竜(どくがんりゅう)」と呼ばれています。豊臣秀吉、徳川家康に仕え、1601
年、居城を仙台に移してのちの仙台藩62万石の礎を築きました。戦国屈指の教養人としても名高い。
戦国武将フィギュア 伊達政宗
(原画・正子公也)
詳細
- 【商品番号】115-003
- 【商 品 名】戦国武将フィギュア 伊達政宗
(原画・正子公也)
- 【サ イ ズ】高 さ 270mm
横 幅 150mm
奥行き 90mm
※サイズはそれぞれ最も大きな部分のサイズです。
- 【仕 上 げ】ブロンズ風仕様
精密ハンドメイド彩色
アンティークカッパー
- 【主な素材】コールドキャスト
- 【商品内容】本体
- 【そ の 他】発売元:こうげつ人形
重量:約830g
備考
- ●弊社商品はすべて職人・仏師の手作業にて製作しております。
一体ごとに木目や色味等が若干異なる場合がございます。また、よりよい商品をお届けする為、造型・彩色・彫刻には予告無く改良を施す場合がございます。その為、掲載写真とは若干異なる商品をお届けする場合がございます。
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「伊達(だて)」の語源を作った男
辞書で「伊達(だて)」と引いてみると、@侠気(おとこぎ)を見せること。そのために意気込むこと。また、そのさま。
A人目にふれるよう派手な行動をすること。また、派手な振る舞いで外見を飾ること。B好みが粋であるさま。とあ
り、「伊達もの(だてもの)」は、派手で粋な身なりの人。お洒落な人。と解説されています。その「伊達」とはまさ
しく伊達政宗の「伊達」で、以下のようなエピソードが発端となっているようです。
文禄2年(1593年)の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、政宗が自らの部隊にそろえた軍装束は豪華絢爛極まりないもので、
従軍のための上洛の道中、ゆく街々で大きな噂となりました。各方面からの軍勢が京都を通過する際、他の軍勢を静か
に見守っていた京の住民も伊達勢の装束の見事さには大きな歓声を上げたといわれています。これは、派手好みの秀吉
の性格を知っていた政宗が秀吉の気に入る軍装束を着させることで、自らの軍勢を秀吉本陣の近くに配置してもらい
損害を最小限にする政宗の策略ともいわれます(実際にそうなったようです)。その当時にも、男らしく気丈に振舞うと
いう意味の「男立て」という言葉があったようですが、徐々に男らしさや粋なさまを演出する傾向が強くなり、伊達の
行軍以降は「立て」が「伊達」に変わって、派手で粋な身なりの人を「伊達者」と呼ぶようになったようです。
最後まで秀吉に抵抗した政宗の陰謀
西国を平定し着々と天下統一を手中に収めていた秀吉は、大名間の私闘を禁じる惣無事令(そうぶじれい)を天正13年
(1583年)に九州地方、天正15年(1587年)に関東・奥羽(東北地方)に発令しましたが、伊達政宗はそんな法令
お構いなしとばかりに戦を繰り返し、着々と領土を広げていました。
1589年、政宗は連年戦い続けていた会津の蘆名義広・常陸国(茨城県)の佐竹義宣の連合軍と磐梯山の麓で「摺上原
(すりあげはら)の戦い」を繰り広げました。蘆名義広はすでに秀吉傘下の一大名となっていたため、その戦いは政宗に
とって秀吉に刃を向けることを意味していましたが、黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配しました。
翌年の小田原征伐の際、政宗は数回にわたる秀吉の小田原参陣要請を無視し、同盟関係にあった小田原北条氏とともに
戦うか迷っていましたが、22万人を超える秀吉軍に対抗するすべもなく秀吉に服属しました。秀吉は小田原遅参の罪
で政宗を罰しようとしましたが、派手好きな秀吉の性格を知っていた政宗は「千利休の茶を所望したい」と秀吉を感嘆
させ難を逃れたそうです。政宗が服属したことで小田原方も秀吉に降伏し、政宗が奪った会津・黒川城(その後、会津
領は政宗から没収)に入城した秀吉は奥州仕置きを行い、ここに「天下統一」が完成しました。
政宗の徳川幕府転覆計画の真相
事の真偽はわかりませんが、伊達政宗が徳川幕府を転覆させようという計画があったといわれています。その計画には
キーワードとなる人物が政宗のほかに2人います。1人は大久保長安で、もう1人は徳川家康六男の松平忠輝です。
大久保長安は金山・銀山の鉱山奉行として徳川家康のもとで頭角を現し、家康の寵愛を受けて莫大な財力を誇った人物
(人件費や経費は長安持ちでしたが、金銀の取り分は幕府側が四分で長安側が六分でした)で、1603年に家康が征夷
大将軍に任命された年に家康六男忠輝の附家老に任じられました。その後の1606年に忠輝と政宗の長女五郎八姫
(いろはひめ)が結婚したことをきっかけに政宗とも親しくなったといわれています。また、松平忠輝は1610年に
越後高田藩75万石の太守になり、キリスト教の洗礼を受けてキリスト教を信仰していたようです。政宗自身はという
と、交流が始まっていたイスパニア(スペイン)と仙台藩との貿易及び、イスパニアの艦隊との軍事同盟を得られるよう
画策し、遣欧使節団派遣のための造船を開始します。政宗はキリシタンである忠輝を盟主に掲げ、自らは後見人となり
大久保長安の財力とイスパニアの後ろ盾を得て幕府転覆の計画を練っていたといわれています。
野心家の政宗の考えそうなストーリーですが、1613年に支倉常長を使者として実際に使節団をイスパニアとローマ
に派遣しています。しかしながら、使節団派遣前に大久保長安は死去し、1616年には忠輝が改易され、1620年
に使節団は帰国するもののイスパニアとの交渉は不成功に終わり、計画は闇に葬られました。
その後は改心したのか、三代将軍徳川家光まで忠誠を尽くしたようです。
絶体絶命のピンチに起死回生の秘策
機転が利くというか、政宗自身でお見通し済みだったというか、政宗は自らの野心で進めた事件のお咎めを機知の富ん
だ方法で幾たびも切り抜けてきました。その最たるものは、天正18年(1590年)に起こった「葛西・大崎一揆」の
政宗扇動疑惑に対する弁明でしょう。
もともと伊達家に服属していた陸奥国中部の葛西晴信と大崎義隆の両名は、小田原に参陣しなかったという理由で秀吉
に領地を没収され、新たに木村吉清・清久親子が封じられました。しかし、その領国経営には旧葛西・大崎家臣たちの
強い反発を買い、領民を交えた一揆が領内全土に広がりました。木村親子が領内の城に閉じ込められてしまったため、
小田原征伐後に会津領に入った蒲生氏郷と政宗が一揆鎮圧と木村親子救出の役目を命ぜられます。しかし、政宗の家臣
が一揆扇動者は政宗本人と蒲生方に訴え出て、また、政宗の祐筆も政宗が一揆勢に宛てた密書を持参してきました。
氏郷から報告を受けた秀吉は石田三成を派遣して政宗に上洛命令を伝え、上京した政宗に対して喚問したところ、誰が
見ても政宗の花押(当時の印鑑代わりの自筆サイン)にしか見えないものを偽造だと言い張り、「本物の自分の書状なら
花押の鶺鴒(セキレイ)の目の部分に針で穴が開けている」と主張しました。実際に政宗の他の書状と見比べてみると、
偽造といわれる花押にだけ針の穴がなかったそうです。疑いを持っていた秀吉もこの主張を認めざるを得ず、政宗の一
揆扇動の疑いは晴れたといわれています。
小田原征伐後の奥州仕置きにて、惣無事令違反として会津ほか8郡を没収された政宗が、失地回復の手段として一揆を
扇動し新領主の木村を失脚させ、一揆鎮圧の功績をもって葛西・大崎の旧領を獲得しようと企んだ、というのが大体の
筋書きのようです。事の真偽はわかりませんが、実際に政宗が花押を使い分けていたとするとかなりの食わせ者です。
しかし、どんなピンチに陥っても冷静沈着に行動し、また、事前準備を怠らないということは流石に伊達政宗です。
我々エムアーツもその「伊達な」男意気を見習いたいものです。
正子公也(作家)について
絵巻作家。 1960年、岡山県生まれ。 中央大学理工学部物理学科卒。
大学在学中、寺沢武一氏に師事、寺沢プロダクション制作部長を経て、89年独立。
『三国志』『水滸伝』『戦国武将』などに題材をとり、時代背景から人物の内面までを鮮明に描ききる、豪快にして繊細な作品は他の追随を許さない。 現代を代表する歴史・武将イラストの第一人者である。
- 1990年 カラーコミック誌「A-ha」にて、処女作「ルオーの道化師」連載
- 1994年 第一画集『龍闘野』(トレヴィル)を上梓
- 1997年 第二画集『絵巻三國志』(光栄)を上梓
- 1999年 第三画集『絵巻水滸伝 梁山豪傑壱百零八』(グラフィック社)を上梓
- 2001年 CD-ROM『SUIKODEN−The Chinese Traditional Story』(XSIV)をアメリカで発表
- 2003年 陳凱歌監督(『さらば、わが愛/覇王別姫』、『始皇帝暗殺』)の2005年公開作品 『無極−THE PROMISE』で、衣装デザインを担当(2006年日本公開)。
- 2005年 塩田明彦監督作品『どろろ』(2007年公開)でヴィジュアルコンセプトデザインを担当
- 2006年 第四画集『百花三国志』、愛蔵復刻版『絵巻水滸伝 梁山豪傑壱百零八』を魁星出版より同時刊行『無極−正子公也デザイン画集』をキネマ旬報社より刊行
- 2007年 『絵巻水滸伝』(森下翠との共著)第一期全十巻刊行 上海大学および中国美術学院にて講演(“中国古典の挿絵と映画における美術デザイン”)