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上杉謙信(正子公也原画)

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上杉謙信(正子公也原画)

商品番号  :
HF006
販売価格  :
8,640円
 (税込・送料別・手数料込)
製造会社  :
製造元:M-ARTS/発売元:こうげつ人形
生産地  :
中国
購入数  :
-


申し訳ございませんが、在庫不足のため購入ができません。


詳細説明

自他ともに認める戦国最強の「義」の知将

戦国武将フィギュア 上杉謙信 (原画・正子公也)
(C)2010 Kimiya Masago (C)2010 Kougetsu / M-arts
上杉謙信(1530〜1598年)

越後(新潟県)の大名。初名は長尾景虎。1561年、上杉憲政から関東菅領職を譲られて上杉氏を名のる。謙信の名 は出家後の法名。北条氏康との小田原攻め、武田信玄との川中島の合戦などを経て織田信長と対立したが、業半ばで 病死しました。後世になり武田信玄の「甲斐の虎」に対して「越後の虎」、「越後の龍」と呼ばれています。

戦国武将フィギュア 上杉謙信
(原画・正子公也)

詳細
  • 【商品番号】115-005
  • 【商 品 名】戦国武将フィギュア 上杉謙信
    (原画・正子公也)
  • 【サ イ ズ】高 さ 380mm
    横 幅 120mm
    奥行き 110mm
    ※サイズはそれぞれ最も大きな部分のサイズです。
  • 【仕 上 げ】ブロンズ風仕様
    精密ハンドメイド彩色
    アンティークカッパー
  • 【主な素材】コールドキャスト
  • 【商品内容】本体
  • 【そ の 他】発売元:こうげつ人形
    重量:約700g
備考
  • ●弊社商品はすべて職人・仏師の手作業にて製作しております。 一体ごとに木目や色味等が若干異なる場合がございます。また、よりよい商品をお届けする為、造型・彩色・彫刻には予告無く改良を施す場合がございます。その為、掲載写真とは若干異なる商品をお届けする場合がございます。
  • ●写真は入荷商品の中から無作為に選んだ実際の商品です。
  • ●実際にお届けする商品と掲載写真では色味が異なって見えることがございます。
  • ●事前の予告無くパッケージや梱包の仕様が変更となる場合がございます。
  • 以上予めご了承下さい。

戦国武将フィギュア 上杉謙信 を詳しく見る
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戦国一の「義」の素顔

好敵手として後世まで語りつがれる上杉謙信と武田信玄ですが、どうやら上杉謙信は信玄を嫌っていたようです。

群雄割拠の戦国時代においてはあたり前のことでしたが、信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵をおとしめた りするのは謙信の考える道徳観に反しており、信玄の行いには激怒していたようです。そんな不満を信玄にを抱いて いましたが、食事中にその信玄の死を伝え聞いた時は「我れ好敵手を失へり、世にまたこれほどの英雄男子あらんや」 と箸を落として号泣したといいます。またその際、「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と武田軍への攻撃を進言する 家臣に対し、「勝頼風情にそのような事をしても大人げない(勝頼は信玄の跡継ぎ)」と意見を退けています。

長年関東の覇権を謙信と争った北条氏康は「信玄と信長は表裏常なく頼むに足りぬ人物だが、謙信だけは請け合った ら骨になっても義理を通す人物。それ故、肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい」と話したようです。事実、頼 まれれば断れない義理堅さの持ち主で、毎回徒労に終わりましたが謙信の関東への出陣回数は17回を数えました。 また、最大の敵である武田信玄も死に臨んで「謙信は義理堅い武将なので、人に頼られれば決して見捨てる事はない。 自分の死後は謙信を頼るように」と跡継ぎの勝頼に遺言したといわれます。まわりの仇敵からも「義理堅い」と評価 されていた上杉謙信は単なる「お人よし」ではありません。親子・兄弟で互いに争うそんな血生臭い世の中で果たす 「義理」だから美しいのです。生涯不犯(生涯妻を持たず異性と交わらない)の堅い決意を貫き通せた謙信だからこそ できた「義理立て」で、そこには「義理」を通り越して武士道の「美」すら感じ取れます。

軍神上杉謙信が残した家訓

「越後の虎」と呼ばれる上杉謙信は、戦ではほとんど負けたことがなかったと言われています。特に用兵が巧みで、 直接ぶつかり合う野戦においては戦国大名の中で最高の指揮統率力を持ち、圧倒的な強さを見せたといわれています。

また、自らを毘沙門天の化身と称し、本陣の旗印にも『毘』を用いるなど武神毘沙門天の熱心な信仰家でも有名です。 更に、戦国武将は戦に専念するあまり経済運営をおろそかにしてしまいがちですが、謙信は100万石の年貢収入と 日本海の海上交易にも力を入れて財を成し、謙信が死去した時には春日山城に27,140両の蓄えがあったそうです (江戸時代初期の米価換算で1両=約10万円なので、その計算式ですと27億1400万円になります)。そんな 上杉謙信の16か条の家訓は次の通りです。

一、心に物なき時は心広く、体やすらかなり。二、心に我儘なき時は愛敬失はず。三、心に欲なき時は義理を行ふ。 四、心に私なき時は疑ふことなし。五、心に驕り(おごり)なき時は人を敬ふ。六、心に誤りなき時は人を畏れず。 七、心に邪見なき時は人を育つる。八、心に貪り(むさぼり)なき時は人にへつらふことなし。九、心に怒りなき時は 言葉和らか(やわらか)なり。十、心に堪忍ある時は事を調ふ(ととのふ)。十一、心に曇りなき時は心静かなり。 十二、心に勇ある時は悔やむことなし。十三、心賤し(いやし)からざる時は願ひ好まず。十四、心に孝行ある時は忠 節厚し。十五、心に自慢なき時は人の善を知る。十六、心に迷ひなき時は人をとがめず。

「軍神・鬼神」と恐れられた上杉謙信ですが、この家訓には心の内面を見ようとする謙信の繊細さが表れています。

「川中島の合戦」って1回じゃないの?

川中島の合戦は信濃(長野県)の覇権をめぐって上杉謙信と武田信玄が戦った合戦で、12年の間に5回も行われま した。1番大きな戦いになった第4回目の合戦が千曲川と屑川が合流した平坦地の川中島(長野県長野市)で戦われ たことから、すべての戦いを総称して「川中島の合戦」と呼んでいます。

第1回は天文22年(1553年)に行われ、長尾景虎が初めて武田晴信と戦ったもので「布施の戦い」あるいは、 「八幡の戦い」と呼ばれています。第2回は天文24年(1554)年の屑川を挟んで両軍が対峙した「屑川の戦い」 で、半年以上も対陣した末に今川義元の仲介で和睦が成立しました。第3回は弘治3年(1557年)に行われた 「上野原の戦い」で、武田晴信の北信濃への著しい勢力伸張に反撃するべく長尾景虎は出陣しましたが、晴信が決戦 を避けたため決着は付きませんでした。そして第4回目は永禄4年(1561年)に行われた戦いで「八幡原の戦い」 とも呼ばれ、多くの死傷者を出す唯一大規模な戦いになりました(この時には晴信は出家して武田信玄に、景虎は関 東菅領職に就任して上杉政虎と改めています)。武田軍は軍師の山本勘助立案の「啄木鳥(きつつき)戦法」で二手に 分かれて上杉軍を挟撃しようとしましたが上杉政虎が見破り手薄になった武田本陣へと斬り込みをかけました。政虎 は馬上から床机に座る信玄を三度斬り付け、信玄は軍配で太刀を凌いだものの肩先を負傷。信玄の供回りが駆け付け たため討ちもらしてしまいました。これが有名な上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの場面です。そして、最後の第5回 は、永禄7年(1564年)の「塩崎の対陣」で(この時政虎は上杉輝虎に改名)、双方にらみ合っての対陣でしたが、 決着のつかないままお互いに兵を引きました。

「敵に塩を送る」って謙信がしたこと?

天文23年(1554年)、甲斐(山梨県)の武田信玄と相模(神奈川県)の北条氏康と駿河(静岡県中部・北東部)の今川 義元との三国で、お互いの利害関係よりそれぞれの娘を互いの嫡子に嫁がせて(武田は北条に、今川は武田に、北条は 今川に)甲相駿の三国同盟が成立しました。

しかし1565年、武田信玄暗殺の謀反の罪で信玄嫡子の義信は幽閉され、2年後の1567年に自害に追い込み、 義信正室の今川義元の娘も駿河に帰国しました。そうすると三国同盟の絆も切れ、今川家当主の氏真は相模の北条 氏康と結託して内陸で塩の取れない武田信玄に対して塩の輸送を禁止し、報復手段を講じました。この行為は籠城 する将兵の兵糧(食料)補給路を断つに等しく、塩がなければ甲斐の領民は生きていけません。信玄は領民の苦しみに 耐えられなくなり、長年のライバルである上杉謙信に塩の輸送を頼みました。その時上杉謙信は、「我は兵をもって 戦いを決せん。塩をもって敵を屈せしむる事をせじ(私は兵を使って戦いを挑む。塩の輸送を止めて敵を苦しめる ような卑怯なまねはしない)」と言って、武田領に塩を送ったのでした。この故事から、敵対する相手に援助の手を 差し伸べるという意味で「敵に塩を送る」ということわざが生まれました。

現在の世の中、私たちは互いに足を引っ張り合い、自己弁護、自己防衛しながら「他人を犠牲にしても自分のために したい」と思いがちですが、どのような状況下でも相手を思いやる精神が必要であると400年以上前の謙信が教え てくれています。この素晴らしい精神、エムアーツも大いに学んでいこうと思います。

正子公也(作家)について

絵巻作家。 1960年、岡山県生まれ。 中央大学理工学部物理学科卒。
大学在学中、寺沢武一氏に師事、寺沢プロダクション制作部長を経て、89年独立。
『三国志』『水滸伝』『戦国武将』などに題材をとり、時代背景から人物の内面までを鮮明に描ききる、豪快にして繊細な作品は他の追随を許さない。 現代を代表する歴史・武将イラストの第一人者である。

  • 1990年 カラーコミック誌「A-ha」にて、処女作「ルオーの道化師」連載
  • 1994年 第一画集『龍闘野』(トレヴィル)を上梓
  • 1997年 第二画集『絵巻三國志』(光栄)を上梓
  • 1999年 第三画集『絵巻水滸伝 梁山豪傑壱百零八』(グラフィック社)を上梓
  • 2001年 CD-ROM『SUIKODEN−The Chinese Traditional Story』(XSIV)をアメリカで発表
  • 2003年 陳凱歌監督(『さらば、わが愛/覇王別姫』、『始皇帝暗殺』)の2005年公開作品 『無極−THE PROMISE』で、衣装デザインを担当(2006年日本公開)。
  • 2005年 塩田明彦監督作品『どろろ』(2007年公開)でヴィジュアルコンセプトデザインを担当
  • 2006年 第四画集『百花三国志』、愛蔵復刻版『絵巻水滸伝 梁山豪傑壱百零八』を魁星出版より同時刊行『無極−正子公也デザイン画集』をキネマ旬報社より刊行
  • 2007年 『絵巻水滸伝』(森下翠との共著)第一期全十巻刊行 上海大学および中国美術学院にて講演(“中国古典の挿絵と映画における美術デザイン”)

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